医療法人札幌太田病院創立62周年記念特集 山口喜一関連文集
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    山口喜一本人の筆跡
1957年6月5日発行 山口喜一著 「老新聞人の思い出」より
   夏枯草
山口喜一が長男の寿一をガンによって奪われるまでの経緯と当時のガンに対する認識とそれによって対がん協会を設立するまでが記されています。

 昭和四年という年は、私に取って終生忘れることの出来ない年である。北海タイムス社の取締役になったのも、この年であり、最愛の長男を亡くしたのもこの年であった。

 長男寿一は、二十五歳で北大医学部を卒業して、直ちに病理学教室の今博士の助手となった。二カ年で大体学位論文の大半を作成し、親戚知己からも将来を期待されていたのに、思いもかけぬ胃癌を患って花なら蕾の若さでこの世を去った。これは私の生涯にとって何ものにも比ぶべきもののない悲痛事であった。

 癌の治療について現在どのような進歩をしているかは、素人である私によくわかるはずもないが、昭和四年頃には全然不治の病とされていて、早期に発見した場合は、摘出するか、また皮膚癌のようなものはレントゲン療法によるかするよりは、療法がないものとされていた。そして癌患者は、主に中年層以後の者に多く、青少年には頗る稀な病気とされていた。しかるに長男はこの時代において癌患者となったものである。

 昭和四年一月二日、私は長男を連れて定山渓温泉の定山園に宿をとり、一週間ばかり滞在した。私は丁度その時株式会社となった北海タイムス社の社規を作製するためであり、長男は学位論文を浄書するためで、父子仲よく朝から晩まで机に向かっていた。ところがある日、長男は何と思ったか、体温器で自分の体温を計った。その結果、七度何分という微熱の存在を発見したのである。私も気になるので早速宿を辞して帰宅することにした。

 その日は、折悪しく大雪のために、豊平駅から馬橇で帰宅したが、その橇のなかで長男は、俄かに病人らしい態度に変ったので私は吃驚した。よほど苦痛を我慢していたらしいのである。帰宅早々直ぐ大学の方は欠勤の手続きをして、植村博士の診察を受けたら胸の病だろうといわれるので、取りあえず応接間を病室に充て、寒中であったが窓を開けて専ら呼吸器病の治療をすることになった。ところが間もなく食物が喉を通らなくなったので、香曾我部博士に聞いたら神経性狭塞ではあるまいか、といわれる。

 そうこうしているうちに、衰弱が段々加わって来たので、北大の今博士が病室を見舞って、自ら聴診器を手にして診察され、有馬内科に入院するようにとのお話であった。その時、主治医の小川博士の意向によって、さらに香曾我部博士に咽喉を診て貰ったら、神経性のものではないということに一致した。それで西川博士によって開腹したところが、噴門癌で摘出の時機を失し、今はただ死期をを待つばかりだということになった。食物を摂ることが出来ないので、やむを得ず胃瘻を作って擂餌にしてやることにした。これが三月の下旬頃と記憶する。

 いよいよ死の宣告を受けたので、あらゆる治療を試みることに決意した。医者には最善の治療をお願いするとともに、売薬という売薬は、ほとんど用いないものはなく、漢法医の使用する植物や昆虫類まで手に入れて、病人には知らせずに胃瘻を通して服用させた。また白石あたりにいた漢法医にも相談したり、岡崎市郊外の万燈山というお寺に頼んで、毎日電報で病状を知らして加持祈祷をしたり、フランスのボテローという博士が、癌治療の血清を発明したというので、そのボテロー博士に血精を電報で注文したり、北大畜産科教授の市川博士が、癌の大家であるところから、博士にお願いして連日徹宵で助手とともに血精を作製して貰ったりした。ところが俄か造りの血精を注射することは非常に危険であるとして主治医の西川博士が、絶対に注射は出来ぬというのを、私は涙を呑んで長男の身体を試験台に供するなど、ここには細かいことは省略するが、以上の五博士によってありとあらゆる手段を尽くしていただいたが、五月二十六日遂に長男は、恩師今博士の手を握ってこの世を去った。

 病気を発見して他界するまでの時期は、僅かに四ヶ月半であった。
 二十七歳の青年が癌に罹ろうとは、医者ですら想像しなかったし、癌は絶対に治らぬものだという観念も、一般人には余り徹底していなかったように思われた。私は長男を喪って癌の怖ろしさを痛感したので、前記五名の先生方に金一封を差上げて、癌治療の研究費に充てられんことを懇請した。五先生は、私のこの申し出を快くいれられ、それを基金に会員を募り、各地の医者の賛成を求めて出来あがったのが、財団法人対癌協会で、今では、保生協会と改称して癌ならびに老人病者の相談相手となっている。癌に関する講演会を催したり、ラジオで放送したり、「癌は治る」という単行本を刊行したりしている。また雑誌対癌を発行して癌に対する知識の普及宣伝に努めている。

 対癌協会が出来たのは、昭和四年九月十三日で豊平館において盛大な発会式が挙げられた。役員としては顧問に佐藤北大総長、池田道庁長官、橋本札幌市長、関場北海道医師会長、山極東京大学名誉教授、佐多前大阪医大学長、長与東京大学教授兼癌研究会々頭、稲田東京大学教授兼癌研究会副会頭、会長に今北海道大学教授、副会長に有馬北大教授、池原北門銀行頭取、理事長に市川北大教授、理事に香曾我部北大教授、西川北大教授、林札幌市立病院長、山口北海タイムス取締役、伊藤北海タイムス記者、監事に木村道庁衛生課長、平野小樽新聞取締役、藪合名会社々長を挙げ、評議員には阿部北海タイムス社々長を筆頭として五十一名、何れも堂々たる顔触れであった。

 その後、戦争のために事業を中止していたし、私も一時東京に移転したりなどして、その間の役員の異動を詳かにしていないが、現在の役員としては理事長に林前札幌市立病院長、理事に安保北大教授、古谷製菓会社々長、井上北大教授、伊藤組社長、目良保全病院長、鮫島北辰病院長、新保札幌医大教授、武田北大教授、由布家畜病院長、監事に古谷製菓会社々長、山口北海道人事委員などの諸氏で、およそ二十六名の評議員を挙げ、数年前から積極的に働きかけている。

 話が最初に戻るが、長男寿一が亡くなった後、現在の北大教授武田先生が「夏枯草」と題する追憶集を編集され、北海タイムス記者伊藤誠修君によって三百余項の単行本を刊行していただいたことを、今だに感謝している次第であるが、表題の夏枯草は、今先生の揮毫で、夏枯草と名付けたのも、また今先生の選択になったものだ。

 夏枯草は、本草網目にある草名で「夏枯草、ヌは十二一重と云う」とあり、また「山中陽に生す芳茎紫色、高さ三十五寸―――三、四月茎頭に穂を成し小なる花密に綴ること二三寸、花大さ三分許り五弁にして色白く淡紫色を帯ぶ」とあり、また「花終れば苗枯る乃ち夏至の候なり、故に夏枯草と名づく、苗枯るれば直ちに根より新苗を生ず、春の苗より長大なり」とある。武田先生は「潔く晩春の頃、夏枯草の白い花のように枯れて行った彼の生涯は、はかないものであったが、しかし夏枯草がその花とともに枯れた根から再び春の草に増して長大な新苗を生ずるように、彼が地上に残して逝った偉大なる足跡もまた彼の霊魂が不滅であるように、永遠にまた不朽に栄えんことを希う意味より、特に恩師今教授の名付けられたものである」と、巻末に附記されている。

 私は二十八年の歴史を有する財団法人保生協会の存在が、非常に意義あるものと信ずるものであって、広く世間の人々から熱烈な援助を寄せられるよう希望する次第である。


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山口喜一の書籍
「夏枯草」
 子息山口寿一が亡くなった後に出された、潔く晩春の頃、夏枯草の白い花のように枯れて行った故人の追憶集です。
発行:1929年12月25日
著者:山口喜一


「老新聞人の思い出」
 新聞人としてその生涯を新聞にかけた山口喜一が、そのきっかけから特に思い出の深かった出来事や人物について述べている一冊です。
発行:1957年6月5日
著者:山口喜一


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