医療法人札幌太田病院創立62周年記念特集 山口喜一関連文集
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    山口喜一本人の筆跡
1964年2月1日発行 北海道総務部文書課 編 「北海道回想録」より
   新聞生活半世紀

山口喜一の半世紀に及ぶ新聞人としての歴史と共に、その当時の北海道の様子などを知る事ができます。

新聞記者を志して立つ
 わたしが新聞記者を志し、東京政治学校を卒業したのは、明治34年のことでした。
この学校は、当時、政友会の大物といわれた星亨が、資金をつくって建てられたものです。校長には、米国のフィラデルフィア大学を卒業して、ニューヨーク・トリビューンの記者をしておられた松本君平先生を、迎えられたのです。当時としては、ひじょうに進んだ革新的な学校で、しかも、法律学校というのはいくらもありましたが、政治学校というのは、珍しい存在でした。

 松本先生は、常に、「新聞記者ほど偉大な力をもっているものはない、世を支配するものは政治家と新聞記者である」ということを、よく話されました。また、英国の政治家ボルクのことばを引用して、わたくしどもを激励しました。かれは、かって英国下院の新聞記者を指さして、「かれらは、英国議会を組織している貴族・僧侶・平民の三大種族のもっている力よりも、さらに偉大な力をもっている第四の種族である」と、かっ破したというのです。先生は、この話をとおして、新聞記者たらんことを生徒にすすめました。それですから、生徒のなかには新聞記者を志すものが多かったのです。わたしもそのひとりでした。

 先生は、のちに講義内容をまとめて、わが国で最初の新聞学という本を著わしました。この本は、新聞記者には、新聞についての新しい知識を与えましたが、一般の人びとにも、新聞の勢力と、記者の責任などを知らせました。それからは、新聞記者などによって、いろいろな本が出版されるようになりました。おもな大学では、新聞学という講座が設けられ、新聞が、学問的に研究されるようになったのです。

 そのころは、現今と違って、政治家にはそう簡単になれるご時世ではない。しかし、力のあるものは、だれでも新聞記者になれました。そんなわけで、政治家よりも新聞記者になろうと志望した生徒が多かったわけです。当時、あこがれの新聞記者といえば、東京日日新聞主筆の福地源一郎、朝日奈知泉、日本新聞主筆の三宅雪嶺、国民新聞社長の徳富蘇峰、毎日新聞主筆の島田三郎、東京経済雑誌主筆の田口卯吉、世界と日本主筆の竹越与三郎といった有名人でした。これらのかたがたが政治学校の講師でしたから、わたしどもに与えた影響は、ひじょうに大きなものがあったのです。

 わたしが、新聞記者になろうとした動機は、むしろ、このような環境にあったといえましょう。そして、わたしの筆名"政民"というのは、政治学校の政と、松本先生の筆名である"世民"の民をとって、先生が命名してくださったものなのです。

 それいらい、新聞記者たらんとするわたしの決意は固く、いくら貧乏しても、その生涯を新聞人としての生活にささげようと考えたのです。

 まずい歌ですが、当時の心境をうたったものに、次のような一首がございます。
 救国の道の一つと選びたる新聞の業に禊して起つ



職を北の果て旭川に求めて
 学校を卒業してから、地方新聞の主筆などをやっておりましたが、考えるところがあって、明治38年の暮れ東京に出て、東京毎日新聞社の嘱託となりました。ところが、米国から帰ってこられた青山学院の本田院長が、サンフランシスコの"日米"という新聞社に頼まれて、日本人の主筆を物色していたのです。最初、毎日の論説員木下尚江さんに白羽の矢が立ったのですが、家庭の事情でゆかれず、その代わりにわたしが推薦されました。そのとき、北海道から北海旭新聞の中島民二郎社長が、自社の主筆を物色のため上京されておりました。その中島社長が、同郷人である有楽社の我孫子社長といっしょに、毎日新聞にこられて、石川主筆に頼まれたのです。そこで、石川さんが木下尚江さんに相談したら、山口をやったらよかろう、ということになったのだそうです。この話を受けたわたしは、アメリカへ行くべきか、北海道へ行くべきか、で迷ってしまいました。北海道については、あまり知識もなかったので、気が進まなかったのです。けれども、わたしを推してくださるかたがたの熱意にほだされて、それでは一年だけという約束でまいりましょう、ということになってしまいました。しかも、北海旭新聞は、北海道でいちばん有力な新聞で、将来性があるといわれたものですから─。

  当時、26歳のわたしは、はじめて見る新天地に大きな夢をいだきながら、花の都をあとにして旅立つことになりました。そのころ、北海道行きの移住民には、汽車賃の割り引きがある、ということを教えてくれた人があったので、家内を移住民に仕立てて汽車に乗り込みました。そのとき、連れて行った子どもは、4歳の長男と、生まれてようやく百日たったばかりの長女のふたりでした。ところが困ったことに、車中の長男が、郷里の祖母をしたって、「帰ろう、帰ろう」といってきかないのです。フロックコートを着たわたしが、その長男を膝の上に抱きかかえて、北へ北へと旅をつづけた当時のわびしい気もちを、忘れることができません。

 青森には夕方に着き、夜になってから、田子の浦丸という小さな連絡船に乗り込みました。船は沖に停泊しているので、はしけに乗りましたが、提灯がゆらゆら揺れ、いまにも沈むのではないかと思いました。本船の中で、長身の紳士がわたしどものそばに来て、「どこへおいでですか」と聞きますので、「旭川へ」と答えると、その紳士が、「旭川はまだ開けたばかりで、道路のまん中に草がはえている。それに道幅がべらぼうに広いので、向うがわのひとには、よほど大きな声で話さないと聞こえない」と言うものですから、えらい所へ行くことになったと心細くなりました。

  これはあとでわかったことですが、この紳士は、札幌で発行していた週刊誌"北世界社"の社長戸川水哉君でした。函館には朝早く着いたので、宿引きに連れられて、勝田屋という一等旅館に泊まることになりました。ところが、移住民取扱所から家内を呼びにきたのです。行ってみると、いろいろ取り調べられ、移住民ともあろうものが、一等旅館に泊まるとはなにごとだと、ひどく叱られたそうです。わたしは、東京毎日新聞社嘱託という肩書きがあったので、難を免れることができました。

  翌日、函館から汽車に乗り込むと、汽笛のかわりに付けられた鐘を、カーン、カーンと打ち鳴らす仕かけになっているのには、びっくりしました。汽車の窓から見ると、大きな木の根っ子がいたる所に散在していて、見渡すかぎり昼なお暗い原始林におおわれておりました。小樽と札幌の間でさえも人家はまばらで、荒涼とした風景がつづいておりました。途中の駅で、いろいろな新聞を買って読みました。小樽新聞・函館新聞・北海タイムスなどの新聞もたいへんりっぱなものでした。それで、北海旭新聞は、どんな新聞だろうかと心配になり、もしかしたら、だまされたのではなかろうかと思うようになったのです。そのうち、列車は、神居古潭にさしかかったので、見ると、石狩川の激流がとうとうと流れていて、きつ立した山がぐんぐん迫ってくるのです。これは、まさに日本の終点、そして地球の果てにきたんじゃないかと、そんな気がしました。そして、これからたどり着く旭川のことを、あれやこれやと想像して全く悲観しました。神居古潭を過ぎると、急にあたりが広くなり、まもなく旭川駅に着きました。

  さすがに、駅前の道路には、草がはえていませんでしたが、一歩横へそれると、なるほど一面に雑草がおい茂っておりました。電灯はついておりましたけれども、まだランプを使っているところもたくさんあり、どの家もバラックばかりで、土壁の家は、たった一軒しかなかったころです。むろん、まだ市制がしかれているはずがなく、町長は、奥田千春というかたで、そのお宅は、田んぼのまんなかにあるというありさまでした。それでも、当時の旭川は、第七師団のおかげで景気がなかなかよく、町中が新興の意気にもえておりました。



所信貫く東武氏の雄弁
 北の果てと考えられた旭川に、赴任したのが明治39年、わたしが26歳のときでした。その後まもなく札幌の豊平館で、政友会東北大会協議会と、北海道政友会支部大会というのが開かれたので、わたしは、社を代表してこの大会に出席することになりました。東京からは、大岡育造、菅原伝、長晴登らの幹部が出席しておりました。この大会の議題の中に、“東北大学を速成し、札幌農学校を大学に進め、高等染織学校を増設すること”というのがありまして、ひじょうに論議がたたかわされたのです。この問題について、東京から来た長代議士が、東北大学を、早急に充実完備することが急務である、という意見を述べたのです。すると、そのわきにいた人が、顔色を変えて演壇にかけ上がり、「札幌農学校を独立した大学にしなければならない」と述べ、「もしこれが入れられなければ、自分は政友会を脱退するだろう」と、演説されたのです。まことに勇ましい弁論でありまして、いまもなお、ありありとその雄姿を思い浮かべることができます。この人が、政友会代議士として鳴らした、有名な東武氏であったのです。また、北海タイムス社の理事として新聞界に活躍されておりました。

  この大会が終わったのち、“北海道大学速成”の趣意書が公表されました。この論文は、北海タイムスの論説員土岐古鐘君が書いたものと聞きましたが、なかなかりっぱな文章でした。わたしが北海タイムス社に入社してからも、札幌農学校を独立の大学にする運動は、引きつづいて行われました。

  政友会支部大会が終わってから4日め、やはり豊平館で、こんどは全道農民大会が開かれ、再び東武さんの雄姿にお目にかかることになりました。そのころの道会は、陸派と海派のふたつに分かれ、農業を代表する議員は陸派、漁業を代表する議員は海派といわれ、ことあるごとに政党を離れて争い、問題によっては、ずいぶん衝突もしておったようですし、そのたびごとに、道会は混乱することがありました。いうまでもなく、本道の開拓は、海岸から内陸に向かって進んできたので、最初のうちは、陸派よりも海派のほうが強かったわけです。当時の議員数は、35人ほどと思っておりますが、そのうち海派は12人くらい、陸派は5、6人だったと記憶しております。

  陸派がしだいに勢力をえてまいりましたのに比べて、海派がくだり坂となってきていたことは、疑う余地がなかったのです。にしんの不漁などによって、本道の漁業が後退し、困っている漁民を救済するため、水産税を減少して、その財源を他に求めなければならない事態になってきておりました。このとき、園田長官が“段別割り増加案”という議案を道会に提案したのです。段別割を増加するというのは、従来、畑十アールについて二銭五厘であったものを三銭とし、翌年には、これを六銭にしようとしたのですから、農民がおこったのもむりからぬことで、ついに、全道農民大会を開くようになったわけです。

  このように、陸派と海派との政争の激しいときでしたから、大会の空気も殺気をはらんでおりました。大会の議長は阿部宇之八さんであったことを覚えております。

  この大会で東さんは、議長の制止するのもきかず、一大雄弁をふるいました。どうして、議長が制止しようとしたのかよく覚えておりませんが、いまになって考えてみますと、道庁案に賛成するような意見を述べたのではないかと思うのです。とにかく、道庁案反対の大会の中で、堂々と所信を述べられた東さんの勇気に、再び感心させられたのです。それでわたしは、北海旭の紙上に、“勇気賞すべし、ピットと東武氏”と題しまして、英国の有名な政治家ピットを例に引き、東さんの信念と勇気とを、ほめたたえる一文を社説に載せました。この社説が、東さんの関心をそそり、やがてわたしが、北海タイムス社に入社する機縁をつくったのではないかと思っております。



遊郭設置反対の社説掲げて
 寒い旭川の冬を越した翌年、北海タイムス社の理事東武氏から、わたしを招請しようとする特使が見えるようになりました。支配人の田中道孝君、旭川市局長の長内 清君が見えたり、その他、いろいろな人から説得されました。けれども、わたしががんとして応じないものですから、とうとう東さん自身が見えられて、北海タイムス社に入社することをすすめられたのです。しかし、わたしは応諾しませんでした。ところが、ここに中島遊郭設置問題が起こってきたのです。

  師団所在地の旭川のことですから、すでに遊郭があったにもかかわらず、師団側では、衛生上、もうひとつ必要であるといって、中島近辺に新設を望んでいたのです。困ったことには、その場所が、あいにくと学校の敷地に近いので、町民の中から強い反対の声が上がってきました。設置反対の中心人物は、町長の奥田千春さんでした。それに宮下派の元老堀井民三、花輪富太郎、越川百一らの諸君が、猛然と立ち上がりました。わたしは、矯風会々員であり、禁酒会の幹事でもあったので、自分の潔癖感からも、断然反対することにしました。そして、遊郭設置反対の社説を、四十数回にわたり、連日のように書いたので、遊女屋の客引き男に危害を加えられようとしたこともありました。

  当時、旭川の政友会は、政友系の宮下派が有力で、奥田町長がその巨頭として、猛烈な阻止運動をやったのです。たびたび上京して、各方面の有力者を訪問したのですが、さっぱり反響がない。見かねたわたしは、東京毎日新聞社の石川半山あてに、紹介状を書いてやったのです。最初は、いなかの新聞記者ぐらいに思っていた町長も、運動の効果があらわれないので、とうとう石川半山を訪れたのだそうです。ところが、半山は、直ちに島田三郎に紹介し、島田はさらに大隈重信、江原素六、矢島楫子にも紹介したので、運動は大きく発展し、ついに国会の問題になりました。

  けれども、軍閥の力に圧倒されてしまって、目的を達成することができず、中島遊郭の設置が決定してしまいましたので、ひじょうに残念に思いました。しかし、奥田町長から長文の感謝状をいただいたことは、まことに感激にたえないことでした。

 この運動で、わたしの名前が知られるようになると、わたしのことを中傷するものが出てきたのです。当時、旭川には、北海旭新聞と反対の立場に立つ上川新聞というのがありました。そのようなことから、山口は、上川新聞の友田社長に内通している、と言う者が出てきたのです。これはとんでもない中傷です。こんなことがあったので、社長は、何事をやるにもわたしに相談しなくなってしまったのです。それで、いよいよ北海タイムス社に入社することを決心いたしました。


北海タイムスの編集長に
 わたしの決意がわかると、中島社長は、北海旭の冒頭に、公開状の欄をもうけて“東武氏にあたえて明答を求む”という標題のもとに、山口がわが社に来たのには、相当の理由があるのに、その山口をだまして連れ出すとは何ごとだ、という記事をのせたのです。これは、ちょっと問題になり、新聞界の話題になりました。

  タイムスにはいってからは、“入社の辞”というのを書きました。
これは、明治40年9月9日、二面の下のほうに載りました。その内容は、わたしが、東武さんの求めに応じてタイムス社に入社したいきさつを述べ、社の使命から新聞の目的、新聞記者の責任と、修養の必要であることを説いたのです。そして、いたずらに燕趙悲歌の士を気取るような者は、旧式の新聞記者であると、当時の社員にちょっと痛いところを述べたのです。これを読んだ社員は、大いに憤慨しました。なにしろ、27歳の青年が、編集長として乗り込んできたものですから、在来の記者連中の不平を買ったのも無理ではなかったと思うのです。記者の多くは30代でしたから、青二才のくせに生意気なことを言うな、ということであったと思います。そのせいか、翌日の社会面のトップに、入社の辞にたいする反対意見が堂々と出たのです。これには驚きました。他の新聞ならいざ知らず、自社の新聞に、編集長を非難する記事をのせるなどということは、とんでもないことです。

  わたしは、最初から一部の社員にねたまれ、ことごとにいやがらせを受けたので、約半年間に、4回も辞表を出しました。けれども、そのつど辞表は却下されて、わたしに反対した一味の人びとが、つぎつぎと数回にわたって退職していきました。しかし、こんな新聞社にいるのがいやになりましたから、なんとかしてやめたい、と考えておりました。

  ちょうどそのとき、東京朝日新聞の社会部長として有名な渋川玄耳が、三人の記者を物色のため来道したのです。新人を採用するよりも、豊富な経験をもっている地方記者のほうがよいというのです。白羽の矢を立てられたのは、わたしと、釧路新聞の遠藤清一、室蘭毎日の上野台次の三人でした。わたしは、一年間の約束で来道したのですから、早くやめて朝日にいこうと思い、東さんには、墓参のため郷里に帰りたいといって許しをえたわけです。ところが、東さんは、わたしを自宅に招かれて、二のぜん付きでたいへんごちそうをしてくれました。出発のときには、わざわざ札幌駅まで送ってこられ、こずかいにしてくれと、金一封をくださいました。わたしは、東さんがそれほどまでに、自分のことを思ってくださるのであれば、そのご厚意にそむいてはいかんと考え直して、朝日新聞社にいくことをやめてしまいました。それで、墓参が終わるとまた戻って来たというわけです。

  このように、数回にわたって東さんがわたしを引き止めたのは、新しい編集長のもとに、社の一大改革をやろうとしていたのです。わたしの入社とともに、そのころとしては、珍しい最新式の色刷り輪転機がはいり、これを機会に、一大躍進を図ろうとしていたことがうかがわれるのです。当時、北海タイムスの発行部数は、1万6千部、従業員は、70人ぐらいでした。このようなとき、東・阿部の両理事のほか、他の役員のかたがたが、わたしを支持してくださったものですから、そのご好意に感激して、一生を社のためにささげようと決心しました。

  それにしても、北海旭をやめるときは、公開状で問題となり、北海タイムス入社のときは、さっそく自社の新聞でこきおろされるなど、当時のわたしは、もっとも悩みの多い、そして波乱にとんだ日を送っておりました。そのころの苦しい心境をよんだものに、次のようなのがございます。
 神よまた今日の一日を安らかに守り給へと乞ひ祷みまつる

          

本道の開拓と新聞
 一年間の約束で渡道したわたしも、いよいよ腰をすえました。入社当時の社屋は、札幌市南大通西四丁目、現在の北海タイムス社のところでした。編集は、本道の開拓を推進することに重点がおかれておりました。もともと北海タイムス(注:現「北海道新聞」)は、北海道毎日新聞、北門新報、北海時事の三紙が合併されてできたものなのです。

  北海道毎日新聞は、阿部宇之八さんが責任者となって、明治20年ごろ、札幌に本社をおいて発足しております。この新聞は、本道の開拓がかりでなく、報道のほうにも重きをおいて編集していたようです。ことに阿部さんは、大阪新報、大阪毎日新報、郵便報知新聞などの記者をされたのち、道庁の会計課に勤務されたかたでした。その勤務中、報知新聞の懸賞論文“国税および税法の大改正案”というのに応募して、一等に当選されました。このように経験の豊富な、しかも学識のある青年が、新聞を刊行されていたのです。

  北門新報は、つぎのようないきさつでできた新聞です。小樽の金子元三郎さんが、本道の開拓について政府に陳情するため上京中、金子さんの友人が、政府に陳情するよりももっとよい方法があるからといって、中江兆民先生を紹介したのです。兆民先生がはじめて金子さんに会われたとき、「お前が小樽のばけ物か」と言ったそうですが、とにかく変わった人でした。そして、「政府に陳情することも大切だが、それよりも札幌で新聞を出すことだ、もしそれに賛成するなら自分が行って書いてやろう」と言われたそうです。その話を聞いた金子さんは、もっともなことだと思い、8千円の金を先生に渡されたそうです。

  この金で、必要な活字や印刷機を東京で買いととのえられた先生は、小樽に乗り込んで、新聞発行の準備にかかられました。そして、第一号が出たのは、明治24年5月だと思っております。北門新報の主筆に迎えられた中江先生は、本道開拓の問題を取り上げて、論陣を張られたわけです。ところが、明治25年、札幌に大火があって、北海道毎日の本社が焼失してしまったのです。そのとき、渡辺長官から、

  札幌に出て来たらどうかという話があって、その年の5月、札幌に本社を移すことになりました。

  北海時事新聞は、浅羽靖、吉植庄一郎、東武という政友会の有力者が、明治32年に発行したもので、たえず、本道開拓の問題を取り上げ、のちには、政友会の機関紙のような性格を帯びるようになりました。

  このように、三紙とも本道の開拓を主眼としていた新聞であり、それからまた、三紙の責任者が、それぞれ政友会に所属していた関係もあって、政治力を大にし、世論によって本道の開拓を推進しようとしたことが、三紙合併の端緒となったのです。新題号を“北海タイムス”とし、明治34年9月3日に第一号が発行されております。その発刊の辞の中に、「本社が、今後において採るところの主義綱領を発揮すると同時に、本道拓殖の進捗を企図するに外ならず──。」という文言がのっております。これによっても、北海タイムスが、本道の開拓を重視して発足したと言えましょう。

 さて、“北海タイムス”という題字ですが、だれが名付け親かと思って、入社当時、心当たりの人に聞いてみました。ところが、知っている人はだれもいない。そのうち、東武さんが、ロンドン・タイムスにヒントをえて付けたという人が出てまいりました。わたしの昔の覚書を見ましたら、北門新報社にいた木村秀実君が、命名したもののように記録されておりました。いずれにしても、三紙が合併された北海タイムスには、革新的な新進気鋭の士が集まっていたので、三紙の伝統を守って本道開拓のために論陣を張ったことは、当然の使命であったといえるでしょう。


本道における新聞の消長
 わが国において、はじめて正式に新聞の発行が認められたのは、明治2年、“新聞紙印行条例”が公布されてからです。これは、明治新政府が開拓使という新制度をもうけた年にあたりますから、新聞の歴史は、北海道の開拓とともに始まったといえます。本道においても、しだいに人口が増加し、明治11年1月7日、函館に、渡辺熊四郎を社長として、“函館新聞”第一号を発刊するにいたりました。これが、北海道における新聞のはじめです。この新聞は、タブロイド型二ページの洋紙印刷で、一部一銭二厘、3千部を印刷しましたが、31年にいたって“函館毎日新聞”と改題されました。

  函館についで、新聞の誕生をみたのは、札幌です。明治13年6月16日、石川正蔵が“札幌新聞”を創刊しました。これは、小冊子型で、一部三銭、毎水曜日に発行されましたが、購読者は、わずかに五百人ていどにとどまり、25号で廃刊となった。ついで、20年1月、小樽の山田吉兵衛が、札幌に“北海新聞”と題する第一号を創刊し、のち“北海道毎日新聞”と改題され、札幌におけるはじめての日刊紙として育っていきました。北海タイムスが三紙を統合して生まれたとき、もっとも社歴の古かった北海道毎日新聞の号数を継承し、4千235号を創刊の号数としたのです。

  函館・札幌についで、新聞の刊行されたところは、根室です。明治23年7月、佐藤喜代治を主筆として“根室新聞”が生まれた。小樽には、はじめ“北門新報”が生まれましたが、26年5月8日、阿由葉宗三郎によって札幌に発刊された“北海民燈”が小樽に移り、同年11月12日、小樽の有志山田吉兵衛、渡辺兵四郎らの出資をえて“小樽新聞”と改題されたのです。わたしが、北海タイムス社に入社したころは、北海タイムス、小樽新聞、函館毎日新聞を、世人は本道における三大新聞といっておりましたが、現在にくらべるとまだまだ幼稚なものでした。

  網走では、同地の貴田国平によって35年4月、“網走週報”が創刊され、38年7月“北見新聞”、のち、さらに、“北見実業新聞”と改題されました。旭川には、34年1月になると中島民二郎によって“北海旭新聞”が、釧路には35年、ときの釧路町長白石義郎によって、“釧路新聞”の発刊をみております。室蘭には41年、ふたつの新聞が生まれた。ひとつは、林幸三郎の“室蘭タイムス”、もうひとつは、 鷺谷治の“胆振新報”でした。帯広には、43年8月“とかち新聞”野付牛(北見)では、千葉兵蔵が月刊誌“北之殖民”を発刊したのが45年3月、大正にはいってから“北見新聞”と改題されました。

  昭和16年、わが国が、太平洋戦争に突入すると、“新聞事業令”が公布され、一県一紙の態勢で新聞紙が統合さらることになり、17年11月1日、“北海道新聞”の誕生をみるにいたったのです。統合の母胎となったのは、北海タイムス、小樽新聞、新函館、旭川新聞、旭川タイムス、室蘭日報、十勝毎日新聞、北見新聞、網走新報、釧路新聞、根室新聞の11紙で、いずれも17年10月31日をもって廃刊した。このうちもっとも古い社歴をもっていたのは、号数のうえでは一万八千五百十六号を数えた北海タイムス、ついで根室新聞の順、同一題号によって終始したのでは、48年の歴史をもった小樽新聞、つづいて明治期に生まれた釧路新聞、大正期に発刊された旭川新聞、十勝毎日新聞の順となり、もっとも新しいのでは、昭和16年に、函館新聞、函館毎日新聞、函館タイムスの三紙を統合して生まれた“新函館”であったのです。

  発行部数では、北海タイムスが第一位で、20万部をこえ、北海道の代表紙として、わが国地方紙の雄といわれました。つぎが、小樽新聞の9万部、新函館の5万3千部、旭川新聞の3万5千部などで、そのほかは、1万5千部かそれ以下のものが多かったのです。

 このように、北海道における新聞は、はじめ、古くから開けた函館にめばえ、ついで札幌・根室の開拓使本・支庁所在地に生まれ、さらに、小樽・釧路・室蘭の各開港場に育ち、やがて、奥地へ奥地へと開拓が進むにつれ、旭川・帯広・野付牛などに発生した。そして、ついえるものあり、伸びるものあり、廃刊・再生・統合など、いくたの変遷をへてこんにちにいたったのです。


新聞はわが人生
 わたしは、昭和17年、道内の新聞が統合されることになったので、これを好機として北海タイムス社から身をひくことにしたのです。入社したときが、明治40年9月ですから、実に35年の長い間在社したことになります。その後、海運局の外郭団体である財団法人日本海事振興会が、日本海事新聞を出すことになり、わたしは頼まれて、新聞社の社長と、振興会の理事を4年間いたしました。そして、終戦になると、焼け野原となった東京をのがれて、郷里に引き上げました。けれども、長年いた北海道が恋しくなって、また札幌にまい戻ってきたわけです。

  札幌へきてみると、公正な新聞をだしてほしいという世論が強かったので、昭和21年、同志とともに新北海道新聞社を創立しました。この新聞が、現在の北海タイムスの前進なのです。わたしは、間もなく追放令にふれて、新北海の社長をやめることになりました。追放令の解除になった昭和26年、札幌国税局におられた西川局長さんに頼まれ、北海道経済新聞社を創立しましたが、いろいろな事情にはばまれ、約半年ほどで休止せざるをえなくなったわけです。

  ふりかえってみますと、わたしが、はじめて新聞記者として長野県松本町の信濃実業新報主筆となったのが明治36年、23歳のときです。そして、最後の新聞、北海道経済新聞を出したちきが74歳でしたから、約52年間、新聞人として生活したことになります。わたしの長い経験からいたしますと、新聞というものは恐ろしいものだと思っております。昔、武士は、切り捨てご免でまかりとおったものですが、新聞のまた、書き捨てご免でとおったころがありました。けれども、終戦後、日本がアメリカの占領下にあったとき、インボデーン新聞課長が国内の新聞を支配し、新聞倫理綱領をつくり、この綱領によって編集するようにと、各新聞社に強く要求したことがありました。そのねらいとするところは、人の信用・権利・自由などを脅かすような記事は、書いてはいかんということにあったのです。これによって日本の新聞は、たいへんきれいなものになってきました。ややもすると、新聞は、人の名誉をそこない信用を傷つけるものです。人に損害を与えるほど、恐ろしいことはありません。ですから、わたしは、この重責に耐えかねて、何度もその職から離れようとしたのです。

  それで、わたしは、常にわたしの行動を慎むことに注意し、そして、ざんげすることにしました。孔子は“日に3度おのれを省みる”と言いましたが、わたしも夜になると、きょう1日はどんな日であったか、どんな事をしたか、どんな態度をとったか、ということを反省し、ざんげしました。新聞人としての長いわたしの歩みは、新聞報国の理想に基づく記者生活を、ただ一筋に求めてきたといえましょう。この気持は次の歌の中で吐露しているつもりです。
  新聞の業は尊し身も魂もみそぎしてこれを汚すなからん



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山口喜一の書籍
「夏枯草」
 子息山口寿一が亡くなった後に出された、潔く晩春の頃、夏枯草の白い花のように枯れて行った故人の追憶集です。
発行:1929年12月25日
著者:山口喜一


「老新聞人の思い出」
 新聞人としてその生涯を新聞にかけた山口喜一が、そのきっかけから特に思い出の深かった出来事や人物について述べている一冊です。
発行:1957年6月5日
著者:山口喜一


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