医療法人札幌太田病院創立62周年記念特集 山口喜一関連文集
夏枯草 医療法人札幌太田病院創立62周年記念特集山口喜一関連文集
HOME 山口喜一本人の筆跡 関連文集 プロフィール
    プロフィール
山口喜一(やまぐち きいち)[1881(明治14年)-1969(昭和44年)]
明治43年頃の北海タイムス社
 ジャーナリスト、道対がん協会創設者。福島県大沼郡の醤油醸造家の二男として生まれた。十四歳で京都同志社に学び、三年後に東京の明治学院日本法律学校に移り、明治34年東京政治学校を卒業して、長野県松本市甲種商業学校の教師になった。その後、会津日々新聞の主筆から39年に北海旭新聞社主筆となり渡道。翌40年、北海タイムス(現北海道新聞)編集長から調査部長、営業部長を歴任し、大正14年編集局長兼営業局長、昭和4年には総支配人もつとめている。しかし17年の道内新聞統合に際し退社して、日本海事新聞社社長になった。太平洋戦争後には、21年に新北海新聞社(後に「北海タイムス」に改題、平成10年9月2日廃刊)を創設したが公職追放令にかかり解除されたのが26年。その後は28年に道人事委員会委員長を務めるなどした。43年に受けた対がん協会賞は、日本初の北海道対がん協会を4年に創設した功績によるものだった。全国でも珍しい新聞社への飛行機導入は大正10年の出来事だった。 
新にまた新聞社創立の議にあづかるわれの一生を貫く道か(相良 義重)

    山口喜一の略歴
明治14年11月22日
福島県大沼郡旭村 原与三郎・ルイの二男として誕生
明治34年4月(20歳)
同志社普通部をへて東京政治学校卒業
明治35年(21歳)
福島県大沼郡藤川村字領家山口寿連 長女トシノと結婚し、 養子となる。母は山口トミ
明治36年 4月(22歳)
長野県松本町戊戌商業学校教諭、かたわら信濃実業新報主筆となり「煙草非官営論」を著し、貴衆両院議員に配布する。長男寿一産れる。
明治37年 1月(23歳)
会津日日新聞主筆となり「政民策論」を著す。政民(せいみん)は筆名。
明治38年12月(24歳)
東京毎日新聞社嘱託員となり、かたわら日本家畜協会の機関 誌「日本の家畜」を編集。
明治39年5月(25歳)
北海道旭川町(市)北海旭新聞主筆として来道。
「人情と義理に駆られて北国の はたてに筆を携うものか」
明治40年9月(26歳)

北海タイムス社(現「北海道新聞社」)理事東武に懇望され同社編集長となる。

明治43年(29歳)
鈴木源左衛門、バウムガルテン、サオライネンの三氏について露語を学ぶ。
明治44年(30歳)
時計台を借り受けて露語講習会を開き、日露実業新報を発行
明治45年(31歳)
平岡風雲について土佐派居合術を学ぶ
大正2年(32歳)
興農園の牧草地を借り飛行機「隼号」を飛ばす。本道飛行初め。
大正4年(34歳)
石山福治と月刊雑誌「武芸」を発行。
大正7年(37歳)
満州駐屯第七師団慰問団に加わり、朝鮮満州を視察。
大正8年(38歳)
日本新聞博覧会評議員に推薦される。
大正11年(41歳)
札幌教育会評議員に推薦される。北海タイムス(現「北海道新聞社」)の社屋を現在の北大通西三に移す。
大正12年(42歳)
日本新聞協会理事・評議員に推薦される。
大正13年(43歳)
台北で開かれた日本新聞協会大会に出席
大正14年(44歳)
熊本の日本新聞協会大会に出席。北海タイムス社(現「北海道新聞社」)編集局長兼営業局長となる。北海道協会の拓殖事業調査委員に嘱託される。
大正15年(45歳)
北海タイムス社(現「北海道新聞社」)主催国産振興博覧会理事長として事務を総轄また印刷局長事務代行も兼ねる。
昭和3年(47歳)
北海タイムス社(現「北海道新聞社」)支配人となる。
昭和4年(48歳)
北海タイムス社(現「北海道新聞社」)取締役支配人となる。長男寿一(医学士)胃ガンで死去。このときガン治療研究費として金一封を今(病理)、有馬(内科)、西川(外科)、香曾我部(耳鼻)、市川(畜産) の五博士に贈りこれが基礎となって北海道対がん協会が生まれた。
昭和11年(55歳)
陸軍特別大演習終了賜饌に参列。
昭和12年(56歳)
日本新聞協会理事・評議員となり、同協会から「帝国文化の推進に貢献せり」と表彰された。北海タイムス社(現「北海道新聞社」)からも勤続三十年の表彰を受ける。
昭和13年(57歳)
日本新聞協会総裁東久邇宮殿下より銀製煙草入を下賜される。
昭和15年(59歳)
北海タイムス社(現「北海道新聞社」)有限責任購買組合長となる。「竹柏会(ちくはくかい)」に入会し佐々木信綱より短歌の指導を受ける。
昭和16年(60歳)
日本新聞連盟業務委員となり、新聞共同販売制度を制定し、北海道樺太新聞共同販売組合創立委員長となる。佐々木信綱主宰「那木の葉会」(歌誌「鶯」)に入会。
昭和17年(61歳)
翼賛政治体制確立協議会道支部委員を委嘱される。新聞統合を機に後進に道を開くため北海タイムス(現「北海道新聞社」)を辞し顧問となる。日本棋院初段。日本海事新聞社長となり次いで財団法人日本海事振興会理事・評議員となる。
「ながかりき三十五年の生活を北海タイムス社にわれいとなみぬ」
昭和19年(63歳)
太平洋戦争激化により海運界はまひ状態になり、日本海事振興会理事・評議員、日本海事新聞社を辞し顧問となる。
昭和21年(65歳)
同志と共に新北海新聞社(元「北海タイムス」の前身)を設立し社長となり編集局長を兼ねる。日本新聞協会理事。短歌「蒼穹」の同人、同「紀元」の同人に推薦される。
昭和22年(66歳)
追放令により新北海新聞社(元「北海タイムス」の前身)社長を辞す。
昭和24年(68歳)
日本歌人クラブに入会、翌年2月同道支部に入会。
昭和26年6月(70歳)
追放解除、北海道経済新聞創立を計画する。
昭和28年2月(72歳)
道知事田中敏文の推薦で北海道人事委員会委員となる。9月、北海道経済新聞社創立、社長に就任。
昭和29年(73歳)1月1日
北海道経済新聞第一号発行、3月11日、脳溢血で倒れ病床四ヶ月、8月、北海道経済新聞経営困難となり休刊
昭和30年(74歳)
新聞印刷株式会社設立され取締役会長に就任。日本棋院二段。
昭和32年10月(76歳)
再び道人事委員会委員。自著「老新聞人の思い出」を出版。
昭和33年(77歳)
道人事委員会委員長となる。自選歌集「喜寿之旅」発行。
昭和34年(78歳)11月3日
北海道文化賞を受く。
「身も魂も新聞業に捧げ来て酬いられたる道文化賞」
昭和40年(84歳)9月29日
北海道対がん協会長表彰、同じく知事表彰( ガン制圧事業功労)を受ける。
昭和41年(85歳)
北海道対がん協会理事。7月、道社会福祉協議会から感謝状を受ける。
昭和42年(86歳)
子息巌と一家を挙げて埼玉県北足立郡志木町2190に転居した。
昭和43年10月(87歳)
日本対がん協会からガン対策事業功労者として協会初の表彰を受ける。
昭和44年(88歳)5月22日
八十八歳の天寿を全うして死去。

    「老新聞人の思い出」から
    山口喜一の趣味について(「文藻と趣味」より)
著者の土佐派居合術
著者の宝蔵院流槍術
 私の短歌もまったくの余技で、もちろん、歌人なぞといわれる柄ではない。趣味といえば碁と武道だが、碁については、すでに語ったから今度は武道について話そう。私の郷里会津というところは、昔から武芸の盛んなところで、そのせいか私も若い頃は、武道のことなら話を聞くだけでも夜を徹するくらいの熱心さを持っていた。

  自己宣伝で甚だ恐縮だが、私は12歳の頃から柔術と手裏剣と縄術を学び、剣道と棒術と鎖鎌は、ほんの手解き程度、それから居合、刀剣鑑定、宝蔵院鎌槍なども学んだ。こんなに列べ立てると武芸十八般の達人のように思われるが、免許皆伝と道場の館号まで貰ったのは柔術で、居合も一通りは勉強した。鎌槍は初伝だけ、刀剣鑑定も初伝、手裏剣と縄術は免状を貰っている。

  大正5年頃、私が中心になって東京から「武芸」という雑誌を友人に発行させて、自分が原稿を書き10号くらいまで続いた。私の柔道は制剛心照流といって、名古屋藩や仙台藩などで教えていたものだが、また他の藩でも教えていた古流だ。明治30年頃の東京では、すでに嘉納流が相当活発な動きをみせていたが、関西方面にはまだ延びていなかったようだ。その証拠には同志社や医学専門学校や警察は、制剛心照流であり、祇園には制剛心照流の大きな道場があって、全盛を極めていた。

  この流派の元祖は、水早長左衛門信正で、2代目が梶原某、この梶原から梶原流が生まれたことになっている。鎌槍は明治から大正にかけて札幌に在住した武徳会範士結城平五郎翁の指南を受けた。一時は豊水小学校の屋内運動場を借りて稽古をした。80歳の老人に二間柄の素槍で突っかかるが、一本も受入れずに一歩一歩押されて、二十間余りの道場を隅から隅まで押しまくられて、汗びっしょりとなったものだ。旭川市会議員の黒田君なども、その仲間の一人であった。

  居合は土佐派で、一時拓殖銀行の道場をお借りして、しばらく練習した。それから1年くらい先生を私の宅にお泊めして、朝晩指導してもらった。また、当時札幌師範の剣道教師であった吉井政恒さんから、北辰一刀流の居合の形、結城先生からは会津藩で教えたという范会流、「やまと新聞」横浜支局長の某君からは、塩田流など、居合は前後20年ほど練習した。滑稽だったのは正月2日、札幌神社で奉納居合を行って、その帰りに桜ビールの直営店で帯刀のまま、壮士の一群を撃退したことであるが、何れも若い頃の思い出である。

前のページへ戻る
 
息子山口寿一 詳細はこちら

親族の短歌 詳細はこちら

山口喜一の書籍
「夏枯草」
 子息山口寿一が亡くなった後に出された、潔く晩春の頃、夏枯草の白い花のように枯れて行った故人の追憶集です。
発行:1929年12月25日
著者:山口喜一

「老新聞人の思い出」
 新聞人としてその生涯を新聞にかけた山口喜一が、そのきっかけから特に思い出の深かった出来事や人物について述べている一冊です。
発行:1957年6月5日
著者:山口喜一

本ホームページは山口喜一(1881-1969)が残した文献や関連文集の内容を掲載しているため、記載されている情報は当時ものです。

北海道日刊新聞記者大会
(大正14年9月23日)

札幌植物園の下村海南と吉植圧亮と著者(右端)

焼失前の北海タイムス社
(元の北門新報社)

金婚式に集まった子と孫
(山口喜一=前列中央、太田清之、佐藤徳意、山口巖、加藤道夫の一族)

著者の家庭
「老新聞人の思い出」より

子息山口寿一の葬儀

北海道文化賞授与式

北海タイムス社内の執務

一家団欒(左よりトシノ、トシ、喜一、喜代、巖、登喜)

心剣一致

制剛心照流手裏剣の打込み
ページの上へ
本ホームページは、当時出版した書籍を紙が劣化する前にできるだけデジタルデータ化すること。
また多くの方へ、当時の状況を参考としてご覧いただける事を目的として製作いたしました。
また、当サイト内では敬称を省略しております。
  HOME | 山口喜一本人の筆跡 | 関連文集 | 山口喜一のプロフィール | 運営事務局
 
夏枯草