医療法人札幌太田病院創立62周年記念特集 山口喜一関連文集
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    太田病院20年史
1963年11月10日発行 「医療法人太田病院 開院20周年記念誌」より
   「開院当時の思い出」 (2代理事長 太田 トシ)

 開院20周年を迎え、顧みるとまことに永い年月であったが、私には何か短かかったような気もする。昭和18年頃の琴似町の有様や、ここの山の手辺のたたずまい、又病院の状態が今もなおはっきりと眼裏に残り、並々ならぬ苦労であった事など、今はすべて只懐かしい思い出となって胸の中に包まれている。

 当時県立代用秋田脳病院長をしていた主人は、かねてからの念願押え難く遂に開業を決意し、8年間住み慣れた秋田を引き揚げ、母校の地札幌に居を移し、大通りに医院を開き、午前中は小樽市立静和病院院長代理の仕事をし、午後は山口氏宅に於て外来患者を診療し、其の傍ら定床30程度の病院を琴似町に開業すべくあらゆる準備に取り掛かった。ところが当時は物資の窮乏甚だしく、医療器具は勿論のこと、例えば患者のお膳や食器等市内を幾度も捜し歩き、今日は5人分又其の次も5人分という様な具合でどうにもならず、とうとう人を煩わしようやく数を揃えたのであった。主人はそんなさ中に敢然と困難を克服し、遂に昭和18年11月11日、自分の誕生日を記念の日として開業し、後に道立代用太田病院となったのである。

 開院早々患者は来ないだろうと思っていたら、早速樺太から女性が一名入院し、私は内心うろたえた。其の後だんだん患者も増え、主人は北大精神科から特に選ばれて来た優秀で沈着な千田婦長と、見習看護婦らと共に多忙になってきた。賄婦は附近の農家の年寄りを頼んだが思う様でなく、結局私が一切を見なければならなかった。然し主人は決して任せ切りにはせず、毎日三度の配膳前には必らず賄室に顔を出し、お膳の一つ一つに目を通し、配膳後病室に入って患者の食事の様子を見て廻り、食べぬ患者が居れば我が子の如く心配し、箸を取って食べさせたりもしていた。又入浴日には婦長や私共と共にポンプの水を揚げたり、火も焚いて手伝って呉れた。極寒の日にはポンプが固く凍てつき、仕方なく賄室から浴室迄、病室の廊下をバケツの手送りで水を運んでいたが、主人も共に手伝って呉れた。又子供や看護婦達の寝静まるのを待ち、雪明りをたよりに主人と肥汲みもしていたが、あの時は全く肩の抜ける思いであった。然し段々附近の農家とも知合になり、貰いに来る様になって其の難をまぬがれた。

 多難な年もあわただしく暮れ、琴似で最初の正月を迎えたが、元日の朝は女子病棟の一室で、患者や看護婦らと共に雑煮を祝い、当時の家族的な病院の雰囲気は、今では望めぬ楽しいものであった。当時は燃料の確保も難しかったので、2階に住む我々は建築後の木屑や鉋がらを主人と拾い集めて焚き焚きし、其れで一冬間に合わせたのであった。其の頃は今より寒く、雪も多く降り、吹雪の日も多かった。

  目覚むれば吹雪しあとの静かなる
    朝の雪をかきをり夫は(トシ)

 開業と同時に事務長として来るはずの河野氏が、遂に一冬の間姿を見せなかった。然し早春のうらゝかに晴れた或る朝、陽にまぶしく輝く畑の堅雪を踏みしめ踏みしめ近付く人を見た。よく見ると其の人は防空頭巾を被った河野氏であった。

  肌寒き風吹く街ゆ山脈に
    雪と見まがふコブシ咲けり見ゆ(トシ)

 雪も解けた春の暖かい日に、河野氏が正式に事務長として勤務することになり、主人は急に肩の荷を下ろし、多年の理想を実現すべく植樹や農耕に心を向けた。目覚めの早い主人は、夜が明けるや高丈を履き鍬を握り、朝食前に早や一仕事をして居った。然し畠作りに経験のないため、判らぬ事は附近の農家の年寄りや、通り掛かる百姓などに気さくに声をかけて聞いていた。

 動物の好きな主人は、餌の豊富なところから、兎や鶏や豚を飼い、肉は食膳に毛皮は子供の防寒に役立て、鶏糞は最も良き肥料となった。或る若草の萌ゆる五月晴れの朝、主人は長男を自転車の後に乗せて山の方に出掛けたと思ったら、間もなく白い小山羊の頸に綱をつけてもどって来た。其れ以来朝は山羊を野原につなぎ、日暮れに小屋え連れ帰る。それが主人の楽みとなった。山羊も1頭が2頭、2頭が3頭となり、乳を多く出し搾乳は専っぱら主人が引き受け、皆に充分飲ませて居った。

 当時は農家も働き盛りの者は召集又は徴用にあい、手不足であったから野菜も足りなかった。主人は一般青菜、夕顔、砂糖大根、玉葱黎、苺等を試作したが、其の熱心さと出来の良いのを附近の人は賞めていた。豆は石臼でひいて黄粉とし、夕顔は干して干瓢に、砂糖大根は煮つめて汁は調味に用い、又水飴を作って看護婦や子供を喜ばせて居った。メロンは今の調理室の前に作ったが、五十程もなり、熟すのを待つ内に或る晩そっくり盗まれ、それ以来作らなかった。味瓜も今のアスパラガスの畑の辺に作り、毎日馬籠を持ち出し穫っていた。主人は其の頃よく「僕の汗迄味瓜の匂いがするヨ」と笑ったものであった。

 入院患者は其の頃30数名居り、空襲に備えて防空壕を堀ることになった。先づ完成後間も無い病院の白壁を黒く塗り替え、二重窓の硝子戸をはづして一重窓にし、現在の石炭庫の辺に家族の防空壕を堀ったが、深くて広く、家財道具一切を2階から移し入れ、何時でも生活し得る迄になっていた。その頃主人は「空襲になったら僕をあてにするな、患者を見なければならぬから」と私に言い聞かせて居った。又今の自宅と調理室との間の辺に女子部、男子病棟の北に男子部、と都合3ヶ所に防空壕を堀ったが、この辺は昔発寒川の支流が流れていたと聞くだけに石が多く、堀り終わるのに2ヶ月余り費した。

 当時の附近の状態は、病院の東と北に林檎園と野菜畑がつづき、西側は競馬場の砂利採り場であった。そこは地面が一段低く、昔の川の流れの跡に常時水が有り、雨量が増すと忽ち池と化し小さな波を見せていた。近所は人家も人通りも少なく、未明に札幌の野菜市場え行く馬車と、数える程の通学児、又山裾に建つ結核療養所に行く人位であった。又病院の向いには、昼なお暗い柏の森があり、下は一面笹薮でカッコオが鳴き、鳶が羽を広げて空を舞い、夜は遠く農家の灯が2つ3つ見える外は全くの暗闇で、三角山だけ近く不気味に聳えて見えた。又はるか遠くに目をやれば、平岸の岡にある静療院が青空に霞んで見え、市の中央のデパートや、北大理学部の建物も緑の森から際立って見えた。夜になれば札幌の空は街の灯で明るく、そぞろに郷愁を誘う。聞こえるものは発寒川の流れの音と、虫や蛙の鳴く声で、時折裏の養狐場から狐の声も聞こえて居った。又遠く耳を澄ませば、札樽国道を走る木炭バスの音も聞こえておった。春は桜花の円山や、秋は紅葉の山脈の四季折々にうつり変る自然の姿を眺めて暮せる健康地であったが、一旦冬ともなればまことに寂しく、降る雪に道は跡絶え、吹雪けばその音に怯え、只々街に住む人達をうらやんでいたのであった。

  朝なさな窓辺に近き柏木に
    カッコオ鳴きて夏さらんとす

  朝まだき野菜市場え行く馬の
    嘶きながら門辺を通る

  夕影の空に円けき月冴えて
    並木の陰にバスの音を聞く

  かしましき蛙の声にくだつ夜を
    窓辺によれば星の流るゝ

  満月の澄み渡りたる空の下
    街の灯はるか靄にかすめり(トシ)

 当時琴似の町は札幌郡に属していたし、人口も1万2,3千であったから、今とは比較にならぬ田舎であった。ようやく既設の電話を手に入れても、電線が無いため移転も出来ず、したがって町えの用事は大方主人が自転車で済ませてくれたが、何俵かの配給米を荷車に積み、喘ぎ喘ぎ汗を流して来る姿はまことに気の毒で、見るに忍びなかった。又冬も主人と橇を引き、駅近く迄魚の配給を取りに出掛けたが、帰りに道路の轍に橇が傾き、散乱した魚をかじかむ手で共に拾い集めた時の気持ちは全く物悲しいものであった。

 かねてから覚悟は常にしていたが、11月16日、主人は第2回補充兵として「11月25日13時迄に旭川北部第4部隊に入隊せよ」との臨時召集令令状を受け、私は愕然とした。多くの患者と子供らと、残る借金の事を考え、全く途方に暮れたが、主人は只「患者の事は心配いらぬ、子供の事だけよろしく頼む」と言うだけであった。11月24日の夜、吉川、切替、両先生と他7,8名が集まり、主人の壮行会を開き翌25日の朝、皆の見送りを固辞して1人で主人は琴似駅え出発した。主人の留守中病院には代わりの先生が来て下さったが、当時は鉄道乗車券の購入困難な時代であったためか、新入院の患者なく退院する者多く出て、遂に半数以下となり、将来を案じていたが幸に12月22日の夕方無事に主人は帰院したのであった。こうして不安と緊張の年も暮れ、再び新年を迎えたが戦争は益々熾烈となり、当病院も消防署員の指導のもとに、防空演習や退避訓練に力を注ぎ、心身の休まる間も無かったのである。殊に6月に4回、7月には6回も空襲警報があって、当時8ヶ月の身重であった私は全く生きた心地もしなかった。然し8月15日ラヂオで天皇の無条件降伏受託宣言を聞き、悲憤の涙を拭いながらもホッとしたのであった。

 戦争はようやく終末を告げたが、一般物資は勿論のこと、殊に食糧事情は日増しに悪化し、当病院にも遂にトロロ昆布や稲黍や、澱粉、澱粉滓等が主食となって配給され、朝はトロロ昆布を入れた粥、昼は稲黍の蒸しパン、夜は芋団子と工夫をこらして作って居った。玉蜀黍も時折配給されて、患者は日に2本普通の人には4本づつであった。当時国内には多くの人が栄養失調で死ぬ者がいたが、隣の療養所へ白木の棺を運ぶのを、窓からよく見掛けたのも其の頃であった。

 或る日小樽聖公会の岩田牧師の訪問を受け、早速主人は子供や患者の心の糧にと、1月に2回づつ来院を乞い、午前中は子供等に、午後は病室で患者のために、牧師は紙芝居を使って慰問に通って居った。又主人も年中行事として、重態な者の他全員を連れて、春は眺望絶景の三角山に、秋は黄葉紅葉の綾なす発寒川上流の景勝の地に、炊事遠足し、運動会や宝探し、歌のコンクール等をして遊び、夏は盆踊りの会、冬は市内から演芸師を招き日本舞踊や手品等を見せて慰安に務めて居った。

 主人は患者の事には情熱を傾け尽し、常に専心一意患者のための病院たらしめる事に精進し、琴似町の文化の向上を計り、常に人の3人前は働いていた。開院後2年で借金の返済を完了し、徐々に基礎も出来、社会からも認められ、主人の絶ゆまぬ努力によって今日に及んだのである。

 開院20周年を迎えるに当り、亡き主人に代り諸先生及び当病院設立に際し一方ならざる御尽力に預かりました各位並びに従業員の皆様に深甚の謝意を述べると共に、今後の病院の発展のため、一層の御尽力と御協力を御願いする次第であります。




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著者:山口喜一

本ホームページは山口喜一(1881-1969)が残した文献や関連文集の内容を掲載しているため、記載されている情報は当時ものです。

建築中の太田病院

琴似で初の正月を迎えて

空襲に備えて白壁を黒くした頃の太田病院


主婦の訪欧日記
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